『ケルトを巡る旅』を読む

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試験も終わって、乱れていた生活リズムもようやく戻ってきた。でもまだどこかぼーっとしていて、手につかないような感じがしている。

こんな時は自分との対話が増える。

久しぶりに河合隼雄さんの本を読んだ。

 

ケルトは、キリスト教が深く入り込んでくる前にヨーロッパに根付いていた文化だそう。

白か黒かをはっきりさせようとするキリスト教を前に、ケルト文化は否定されて廃れてしまったが、今、再び目を向けられるようになってきたという。

 

自然と人間を切り離し、人間が自然をコントロールできると考える近代西洋人やキリスト教

効率を重視し、「意識」で何でもコントロールができて、伝えるためには言葉にする、というのが彼らの考え方だ。

それに対して、ケルトは自然と共に生き、曖昧な部分をそのまま残すところがある。これはかつての日本の文化に通じるものがあるという。

 

日本の急激な西洋化。それによりバランスを崩している日本人を危険視した河合さんが、ケルトに何かヒントを得ようとその文化を実際に体感してこよう、というのがこの「ケルトを巡る旅」だ。

 

日本もケルトのように、かつては自然と共に生きていた。

それを裏付けるように、日本には元々「自然」という言葉はなかったそう。それは自然と人間を分けていなかったから。

日本も自然と共に生きていた、つまりケルト的だった、ということだ。

 

それ以外にも、例えば日本の多くを占める仏教と神道。不思議なのことにどちらかひとつというわけでなく、どちらも上手く取り入れている。

ケルトは飲み込まれてしまったが、日本はキリスト教を一時禁止していたこともあり、未だ無意識や自然と共に生きる文化の名残が残っている。

それなのに西洋の考え方を戦後に急激に取り入れたために、今大きな過渡期を迎えている、と河合さんは書いていた。

 

そしてなんと、最近の西洋文化圏の人はというと、逆にケルトや日本のような動きが出てきているという。

 

こんな例え話があった。

「私」の恋人が死んだ時、何で恋人が死んだかと問うと、科学は「心臓麻痺です」「出血多量です」と答える。でも「私」が本当に知りたいのはそんなことではなく、「なぜ『私』目の前で死んだのか」に対する科学では割りきれない類の答えだったりする。生きていくにはそういう部分も必要だということを、ようやく西洋の人たちも分かり始めてきたのかもしれない、と。

 

ケルト的、日本的なだけでは文明は発達しないし、西洋的なだけでも上手くいかない。かといって両方を取り入れれば矛盾が生まれてしまう。

しかしその矛盾を秘めて生きていくことが人間なのではないか、という言葉が印象的だった。

 

わたしも、心の中の矛盾に悩まされることが多い。それでもグレーなまま受け入れて生きている。それは悪いことではないし、むしろ自然なことだと言ってもらった気がした。

 

一見、なんでも言葉にして、論理立てて明解に説明できる人たちが、一歩先を行くように見えるけれど、人には意識的に行う部分だけでなく、無意識的な部分も多くあるんだ。

なんでも簡単に見えている物事で測っていけないんだ。見えない部分も、もっと大切にしていかなきゃなと思った。