『怪物はささやく』という映画を観た。
あらすじだけ見れば、少年が母親の死を乗り越えるという、よくあるストーリーなのかもしれない。主人公が少年だからか、少し子どもっぽさもあった。けれど、心に残るいい作品だった。
たまには、「上手く言えないけど、よかったな」と思う映画について、どうにか言葉にできないものか、よくよく考えてみようと思う。
人は誰でも、矛盾を抱えて生きている。
信じたいのに信じられなかったり、愛しているのに傷つけてしまったり。
自分の心の奥底にある感情が、心地よいものでないことだってある。
主人公は、母親の新しい治療が失敗に終わるたび、なぜ治らないのかとふてくされる。
日に日に弱っていく母親へ何もしてあげられないもどかしさを抱える自分。いつか訪れる母親の死を受け入れたくない自分。もしかしたら母親は死んでしまうかもしれない、そう考えてしまう自分を責めて、怒りを感じている。
なんとか諦めず回復してほしい。その一方で、ある感情が芽生え始めていることに少年は混乱する。
いつ来るかわからない「来たる日」への抑えられない恐怖や、自分を責める感情は、怒りとなってあらわれる。
辺りかまわず物を壊し、暴力を振るう。それなのに周りは同情ばかり。誰も自分を罰してくれる人はいない。いっそ誰かが叱ってくれればいいのに。本来ならそれは愛情ある母親がしてくれることなのかもしれない。
自分の奥底に眠る負の感情を、自分自身で認めて受け入れることは、とても勇気がいることだ。
怒りというのは、多くの人が他人のせいにしがちだけど、私は、いつも必ず自分の中に原因があるように思う。自分の醜い部分を認めたくないから、人は嫌がったり、怒るんだと思う。
怒りというのは案外、遡ってみると純粋な気持ちから生まれていたりするものだと思う。
自分の醜い部分を認めて、受け入れることができれば、怒りというのは、きっとそれまでとは少し違ったものに変化すると思う。
主人公と怪物の対話は、まるで自分自身との対話のようでもあるし、知恵を貸してくれるおじいちゃんとの会話のようでもあるし、セラピーのようでもある。
物語には、人を癒す力がある。
神話や昔話のように、古くから残る物語はら今も多く読まれている。英雄の冒険を、村で起こる不思議な出来事を、人々は自分自身に重ねることで、共感し、そして癒される。
物語を語ることで真実に近づいていく、というストーリーが、シンプルだけどとてもよかった。
矛盾を矛盾のまま、上手に抱えて生きていくことは、日本人は案外得意な方らしい。一神教である欧米諸国では、白黒がはっきりした論理的な考え方をするから、対立した感情が共存すると、とても混乱する。
でも実際の人生は、白黒だけで生きていくことは難しい。二色で割り切れないところに、大切なものがあるものだから。
だからこそアメリカでこういう作品が生まれるというのは、興味深いなと思う。
映画と自分とは、いろいろなところで重なる部分があったのかもしれない。
いっそやめてしまえば楽になるのに、先の見えない治療を続けている不妊治療。きっと次は上手くいくと信じている反面、実はどこかで諦めている自分や、未来の孤独、母と子のやりとりなどが、なんだか重なってしまったのかもしれない。
辛い話とも言えるけれど、辛い時、どうしたらいいのか、そんなことを教えてくれる物語でもあると思う。物語が人を救う物語だと思う。病気になった本人ではなく、それを見守る側の辛さに目を向けている。実は多くの人が、その立場を経験していて、共感できることかもしれない。歳をとったなぁと両親に感じた瞬間なども、これと似たような感覚があるんじゃないだろうか。
すごく好きでお勧め!というタイプではなかったんだけど、個人的にいろいろと考えさせられた映画だった。
長くなった。
ハードボイルドに生きるのは難しい。