『英語の発想』、そして『英語翻訳術』。
1ヶ月近くかかってやっと読み終えた。
どちらも古くからあるのに、色あせていない。
TOEICの次は、翻訳の勉強をしようと手に取ったのがこの2冊。
『英語の発想』(1983年)は、日本語と英語の特徴や比較を掘り下げていく内容だった。話法や時制、受け身など、文法の違いがそのまま文化や思想の違いにつながっていることがよくわかった。
日本語は動詞中心。IやYouなどの主語も省略しがちで、状況密着、つまり「こと」的であり、共感的であるのが特徴。対して、英語は名詞中心。「もの」的で、必ずといっていいほど主語がある。
発想的な違いは多くあり、それが色濃く文法にも現れているというスタンスで話は進む。
けれど最終的には、深く読み解いていくと相通ずるところも多くある、という気づきについて書かれ、そして所詮はどちらも人間の言葉であり、全く異なるものであるはずがない、と締めくくられる。
人の心は、深いところまでいくとつながっている。きっと言語でも同じなんだろうと思えた。
『英語翻訳術』(1982年)はもう少し具体的な翻訳術に関する本。名詞や動詞、話法など、翻訳する上で気をつけるべき点で各項目ごとに分かれている。具体的な例文と訳を使ってノウハウをまとめた本。
この本がえらく時間がかかった。演習問題が多くて、解き進むのに時間がかかった。
やってみて初めて、英語を理解することと翻訳をすることが全然違う性質のものだということがわかってきた。
頭の中で、英語を英語のまま理解するように努めてきたけど、それを日本語の言葉にするのって、とても難しい。なぜか、どこか惹かれるんだけど。
あとがきもよかった。翻訳が表現と言えるのかどうか?という話題に触れていた。
演劇は例えば、もちろんだけど言葉だけでは表現できない。動きや声色、その他様々な要素で表現されている。そして、役者の表現には、必ず他者の視線が必要だとあった。
演出家は役者を「見る」ためにいて、役者自身は、「見られている」ということをテコにしないと、芝居はできない。
確かに翻訳は、他人の書いたものを訳しているだけで、表現ではないかもしれない。
でも表現が原理的に他者を必要とするなら、翻訳だって表現の範疇に入っていると言えなくもないのかもしれない。翻訳にも他者が必要だ。他者は読者であり、また作者だったりする。
人が「つくる」という行為は、はりある視線を受けながら、自らにある一定の拘束を課すことで初めて成り立つ。逆に言えばそういうぎりぎりのところまで行ったものだけが、翻訳における表現なのでは、という締めくくりだった。
講義の最後に語られた、熱い言葉。印象的だった。